鈴木インシデントの必然:鈴木みのるインタビュー

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鈴木みのるの渡米は、ひとつの現象だった。

私がこのブログで伝えたいことのひとつに、プロレスは必ずしも言語を越えない、という実感がある。日本のプロレスは世界で求められていて、だからこそさくらえみはAEWに招聘されたのだという期待は日本語での反応の数々からうかがい知ることはできるものの、必ずしもそれは真実ではなく、だからこそさくらの挑戦を私はスリリングに感じている。日本のプロレスはすごい、その前提を証明するためだけに動いていたらきっと、大事なものを見落としてしまう。それは私の本意ではない。ここで新しいやり方を見つけ、もう一度何者かになることこそ、さくらえみの目指すものだと。それは例外なく、日本のレスラーが誰しもが直面する壁と冒険であるに違いないと。

しかし早速その例外に出会ってしまった。それが、鈴木みのるだった。

シカゴで小島聡と戦った直後のジョン・モクスリーの前に、彼のアイコニックな入場曲『風になれ』とともに鈴木は現れ、モクスリーの出身地であるシンシナティでの対戦が実現した。そして、シンシナティである事件が起こる。

「SuzukiIncident」である。

鈴木みのるの入場においてほとんどすべての観客が熱望するサビの合唱部分、「風になれ」がシンシナティにおいては流れずに、会場にいる観客のみならず、テレビを、そしてインターネットストリーミングを見ていた人々の不満が爆発した。濁流のようにタイムラインに流れる声はTwitterのトレンドとして顕在化し、「♯SuzukiIncident」としてその現象は人々に認識された。鈴木みのるは、到着しておよそ二週間でひとつの事件としてアメリカのひとびとの、おそらくプロレスを普段は見ないような人たちの目の前にも、現れた。

鈴木みのるがチョコプロの第一回大会に出場したという縁、そして我闘雲舞に所属している私の同期のレスラー・沙也加が彼のアパレルショップ「パイルドライバー」に勤務しているという関係もあり、彼がAEWに姿を現すタイミングで折を見て、私とさくらは彼に話を聞く機会を持つことができた。というか、同じ会場にいたので勝手に話を聞きに行った。

沙也加から、鈴木の普段の姿を聞くことも多い。彼が取材に対してどのように応対するかを、沙也加は事前に、ライターとしての私に教えてくれた。彼女から聞いた鈴木みのるは、上司としての優しさを持ってはいるが、手ぶらでやってきたマスメディアにはとても厳しい。「ファンはどう思っていると思いますか?」という質問に、彼は不機嫌になったと沙也加は言った。

「うるせえな」「客がどう考えるかとかファンがどう思うかとか、知らねえよ」

日本とアメリカのファンの違いについて質問した私にも、鈴木みのるはそう答えた。その口調は静かな苛立ちを感じさせるもので、私は背中に冷やりとしたものを感じた。

「どこに行こうが俺のやることは変わらない」と鈴木は断言する。「強いか弱いか、それだけだろ」と。そして同時に、「客に合わせるなんてこともしねえよ」と、さくらの悩みを一蹴する。「客の見たいものを見せたって、そんなのつまんねえだろ。想像もしてねえことが起こるからおもしれえんだよ」

今回のAEWの出場に関しても、彼はこう答えた。「呼ばれたから来ただけ」「いつも通りに相手を殴ればいい」

今になって思い返してみれば、全くその通りだった。

モクスリーとの試合でも、ニューヨークでランス・アーチャーと組んだタッグマッチでも、そこにいるのはいつも通りの鈴木みのるだった。エルボーを食らってにやりと舌を出し、思い切り肘を相手の首元に打ち込み返す。

彼がどうして今回のような現象を起こすことができたのか、今ならわかる。

そもそも今回の鈴木の渡米は、キャリア30年を越える世界的レスラーの遠征と考えると、かなりイレギュラーなものだ。団体所属のレスラーで、団体を通して招聘されるレスラーならばおそらく、試合以外のこまごまとしたやり取りや移動に煩わされる心配はない。

だが、鈴木みのるはたったひとりでアメリカを、二か月間サーキットする。西も東も関係なく、縦横無尽に、彼に出てほしい団体に姿を現すために旅をする。

その決断はあくまで軽やかだが、すべてのレスラーが同じような選択をできるかと言えばそうではない。もちろん、アメリカでどこの団体からもぜひ出てほしいと言われるほどのレスラーである、という鈴木みのるの人気が重要なのももちろんだが、単身渡米し、全米中をひとりで周る二か月を、リアリティを持って想像し、それを実行に移せるかどうかということを考えれば、それが誰にでもできることではないというのがわかる。今回の出来事はすべて、鈴木みのるがたったひとりで引き寄せたものだ。

ニューヨーク大会当日の会場のカフェテラスで、私は鈴木みのるとずいぶんと話し込んでいたように思う。話し込んでいるあいだも、何人ものAEW所属選手たちが彼に握手を求めに来た。時に気さくに時に私を脅しつつ話をする鈴木みのるは、話の合間にずいぶんと、プロレスについて私に教えてくれた。

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「国によってやり方を変える必要なんかねえよ。俺よりスパーリングやってる奴なんていねえだろ。ゴッチさんのところで練習してた時に、何もねえ平原で、通り沿いに柱が立っていて、柱の傍を通るたびに腕立てしろって言われてさ。どうせゴッチさんは見てねえだろって思って、サボろうとしたんだけどよ。とお~~~くから見てんだよ。だからサボれなくてよ」「今まで俺に弟子入りしたいって奴も何人もいたよ。だからそういう奴には、わかった、じゃあここで30分間首ブリッジしてろって言うんだけど、誰もやんねえよ。でも、それをやんなきゃ強くならねえんだよ。最近だと、それでも俺の言うとおりにやり続けてた奴はエル・デスペラードくらいかな」

SuzukiIncidentなんて、彼にはあってもなくてもどうでもいいことなのだ。彼の周囲で起こることはあくまで二次的なことで、その中心には自分自身の強さを一筋の曇りもなく信じられる根拠がある。

プロレスは国境を越え、言語を越えるか? 私には、イエスと言うことはできない。そんなに単純であればどんなにいいだろうと思うが、まったくもって、それは事実ではない。その壁にぶつかって、多くのレスラーがきっと大いに悩んでいる。

ただし、鈴木みのるに関しては、それは違う。鈴木みのるは国を越えて言語を越えてそれでもなお鈴木みのるか? 間違いなく、「イエス」だ。それを可能にした要因は、必ずしもプロレスにあるわけではない。この現象は、鈴木みのる鈴木みのるだから成し得ることだ。

ただ、そういう人のありようを、渡米してすぐに見ることができたのは幸運だった。世界は広い。世界の広さを教えてくれたのは、アメリカで出会った鈴木みのるだった。

さくらえみ、新天地。イチからのスタート。

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さくらえみが渡米しておよそ1か月になる。

2019年にアメリカの投資家であるトニー・カーンによって設立されたプロレス団体AEW、その旗揚げ戦に招聘されたさくらえみは、以降定期的にAEWに参戦し、2021年8月に本格的な挑戦を志し、アメリカへと居を移した。

 

AEWには現在、年に4回のPPVと、定期的に放送される4つの番組ブランドが存在している。

AEW DynamiteはいわゆるAEWのフラッグシップコンテンツで、TNTというテレビ局で放送される2時間番組だ。RampageはDynamiteに次ぐブランドの、同じく1時間のテレビ番組。そして、DarkとDark: Elevationは、YouTubeで無料で視聴することができる配信番組となっている。

Dark(Dark: Elevation)という名の通り、同配信番組の収録はDynamiteかRampageの放送・収録前(あるいは後)に行われる。DynamiteやRampageが始まる前、あるいはメインイベントが終わって帰ってしまうタイミングでの試合のため、その日のチケットがたとえ完売していても、客席には人のいない空白が目立つ、ということもある。Darkではメインロースターのほかに、地元あるいは近隣州に住まいを持つレスラーが出場することも多く、テレビ放映される2番組とは少なからず目的やターゲット層が違う(それぞれの番組のAEWにおける役割については、私自身、まだ明確に定義できていない)。いずれにせよ、テレビで放映されるということは、2021年現在でもいまだに大きい影響力を持っている。そしてさくらの活躍の場は、現在は主にDark(Dark: Elevation)となっている。

これをゼロからの挑戦というのは不正確だろう。さくらえみが26年のキャリアを持つベテランレスラーであることは少なくともAEWのスタッフや選手たちは知っているし、その強さを確かめたいという意思を対戦カードからは感じることができる。

しかし、さくらが相対し、乗り越えなければいけないもっとも大きなものは何よりも「AEWのファン」にさくらえみというレスラーを知ってもらい、さくらえみというレスラーの試合をもっと見たいと思ってもらうという壁であり、そのためにはひとつひとつの試合と自己アピールに全身全霊を賭けるしかない。「私は私だ」と、いつだって初対面の相手に語り掛けるように、自分自身を紡いでいくしかない。

そこでは「26年目のベテランレスラー」「里歩と志田を育てたトレーナー」という肩書きはあまり、というかほとんど意味がない。それは遠い日本でかつて起こった出来事でしかなく、AEWを見ている人にとって重要なのは、今ここで、あるいはこれからどこかで起こることであり、彼らが見たことのないものを見せてくれる選手かどうか、それだけだ。

近くでさくらを見ていて、彼女はゼロではなくても、イチからのスタートをすることにしたのだな、という気配を感じている。YouTubeで配信されるDarkとElevetion、テレビで放映されるRampageとDynamite、そして有料で配信されるPPV。どのプログラムでも選手は勝つために全力で戦うものだけれど、より多くの人に知ってもらう、見てもらう、そのためにはテレビの電波に乗らなければいけないことは確かだ。それは極めて狭き門で、テレビ放映される両プログラムともに女子の試合が多くの場合1~2試合であることを考慮すると、どう考えても、トップと認識される選手になるしかない。

より多くのファンに見てもらうために、存在感を示し、そのために勝ち続ける。単純ながら、AEWのスケールを思うと、その道のりの遠さに途方に暮れさえする。

しかし、アメリカで戦うと決めたから、すべきことは明確になったのだとも言える。この場所であらためて、全部が真新しいものとして、ひとつひとつを積み上げていく。今まで積み上げてきたものは、自分を支える確固たるものとして、胸の奥の定位置にしまっておいて。

26年目のベテランのニューフェイス。AEWに来るというのは、そういうことなのだ。

フロリダの雨

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フロリダはアメリカ南東部、半島として突き出た場所に位置する州だ。

キューバにほど近く、気候は温暖で、今ではどうだかわからないけれど、ニューヨークの証券会社で一生分稼いだあとはフロリダで悠々自適の生活を送るというのが、アメリカにおけるいわゆる「憧れの人生」なのだと教えてもらったこともある。そういう場所なのだ。

フロリダでもっとも有名な土地はおそらく南部に位置する州都のマイアミで、全米でも有数のビーチリゾートだ。一方のオーランドは、フロリダよりもやや北に位置しており、世界最大のディズニーランド、ディズニーワールドを有することでも知られている。というか、オーランドが現在のような保養地として認識されたのは、そもそもがディズニーワールドの建設がきっかけだ。まさしくリゾート地といった趣のこの土地には、湿地帯を埋め立てて作られた人工的な風景が連なり、いつでもどこかが工事中だ。プロレスファンにとって重要な土地であるタンパは、オーランドから西へ車で1〜2時間ほどの距離だろうか。

オーランドでは、真夏の東京のようなゴロゴロという遠雷が毎日のように雨を告げる。空調の効いた室内ではその雨の激しさを知るべくもないけれど、まとわりつく湿気の中を、濡れ果てた地面を小さなトカゲが這い回るのを目にすれば、この土地がどういうものを含んでいるのかを何となく感じ取ることができる。虫やカエルの鳴き声、蛾の張り付いた壁、どうやらワニもいて、そしてディズニーランドやユニバーサルスタジオ、宇宙センターもあるのがオーランドなのだ。

ミルウォーキーに向かう飛行機が、雨で離陸の遅れを余儀なくされた。二時間近く、駐機場で足止めを喰らい、冷房が効きすぎた機内では乗客たちが暇を持て余す。毎日の夕立の激しさを知れば、夜の便ではこれからも同じことが起こりうるだろうなと、水を配るキャビンアテンダントの様子を見ながら考えていた。だが、私が英語にまだ慣れていないせいかもしれなかったけど、乗客には焦りはあっても肌を刺すような苛立ちは感じられなかった。

冷え切った二の腕を抱きながらまどろんでいると、まだまだ全ては聞き取れない英語でのアナウンスが耳に届く。

「天候の影響により、まだ離陸はできません。でも、天気のことは私たちにはどうすることもできません」

なんて明快に、事実を捉える言葉の連なりだろうと私は夢の中で嬉しくなる。

足元を擦り合わせながら、アパートの庭の石造りの庭を、雨あがりに横切るトカゲたちの姿を、私は思い出していた。

AEW All Outに向けて、現地から


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シカゴ滞在4日目である。
AEWのサーキットは多くの場合、本来はこれほどの長逗留にはならないが、今回のシカゴのショーは最終日にPPVのAll Outが開催される(シカゴはニューヨーク、ロサンゼルスに続くアメリカ第3の都市であり、衝撃のカムバックを果たしたCMパンクのホームタウンでもある)ため、市街地からは少し離れた場所にあるnow ARENAでのショーが水曜日から日曜日まで続くことになる。チケット販売サイトのチケットマスターでは3興行をすべて観戦できる通しチケットも発売されており、PPVのAll Outのみならず、この一週間が丸ごとAEWのイベントのような感覚を持っているファンも多いだろう。
金曜日と土曜日には、会場から少し離れたコンベンションセンターでファンフェストが開催され、選手との交流やサイン会が行われている。喩えとして適切化はわからないが、ショーとミート&グリートを同地域でおこなうスタイルは、WWEレッスルマニアとアクセスの関係を想像してもらえるとわかりやすい。大勢のレスラーが一堂に会する機会は、大勢のレスラーがファンと交流する機会でもある。同時に、今回のシカゴの一連のショーとイベントが、どれほどAEWとそのファンにとっていかに大きなものかを理解することもできる。実際、すでに開催された水曜日のショーで聞いた客席の歓声は、何か予兆のようなものすら感じさせるほどの熱狂をはらんでいた。
All Outで行われる試合は、タッグタイトル戦とランブルマッチを除いてはすべてシングルマッチ。AEWにたどり着いた選び抜かれた選手の中でも、PPVに出場できる選手は極めて限られている。日本にいるとときに届きづらいと感じるAEWという団体の輪郭を感じ取れるこれ以上ない日となっていると確信を持って言えるので、プロレスのありかは世界のどこにでもありうると信じる人にこそ、見てほしいと思っている。私が所属している団体の代表であるさくらえみも出場する。私も、会場から見届けられれば。

All Outは、格闘技の総合配信サイトであるfite.tvから購入できる。
https://www.fite.tv/

おとぎ話と現実の断層

物語はずっと私とともにあった。ここでいう物語とは、漫画やアニメやゲームといったいわゆるフィクションだけじゃなくて、人を愛することは素敵なことだとか、夢を追うことは意味のあることだとか、私たちの行動一つ一つに意味を与えるものの総称、私達が現実を説明するときに用いる論理のことも含まれる。

だけど、ときに現実と物語の境界を、ひとは恣意的に動かす。昨日まで正義について語っていた人が自分の行動だけは例外にしてみたりとか、そういうことだ。その動かし方はビックリするくらい都合がよくて、私はけっこう戸惑う。そういうことをする人たちを非難したいんじゃなくて、私自身もそういう振る舞いをしているのだと気づくから。

そしていつしか、「現実を見ろ」とか、「甘いことを言うな」とか言われたときに、何も言い返せなくなる。それが大人になることだ、と言う人もいるだろう。現実とはつまり、強いものは価値があり、勝者はすべてを手に入れ、泣いているよりは笑った方がいい、そういう場所であると、納得していく。

 

私にとってはその断層、物語を信じる自分と物語を裏切る自分、そしてそれを一種の成長だと断じる世界、がひどく苦痛で、体が動かせないくらいに、ベッドから這い出せないくらいに、落ち込みもした。強いものを強いと認識するためには弱いものが必要で、勝者は常に敗者を必要とし、悲しいことを悲しいままにしておくことは許されない。そういう現実を、物語は追認しているように思えた。今ここで泣いていて弱い私は、そのままでは存在してはいけないのではとすら思った。

あんなにみんな、物語を愛しているふりをして、物語に救われたとかなんとか言っているくせに、結局何一つ信じていないんじゃないかって。非難するだけだったらよかったけど、私もその一部なんだって。みんな、誰かが傷ついた話には感情移入して泣いてみせるけど、次の瞬間には踵を返して誰かを傷つける言葉を簡単に吐く。自分だけは加害者だって思わないために必要なのが、物語なんじゃないかとすら思う。その残酷さは、どんな現実よりも私を打ちのめす。

そして、そんなふうに打ちのめされていた時に、私はプロレスを見た。そこには敗北も弱さも涙もあって、だから私はベッドから這い出して、もう一度、私は物語を愛することに決めた。信じることに決めた。

 

私は今、プロレスラーをやっている。スポーツ歴のない、フリーランスライターで、162センチ45キロ。私がレスラーとして試合をして戦っていることを、クリス・ブルックスはおとぎ話だと言った。私はレスラーなんかではなく、周りの人達が私をレスラーとして扱ってくれるだけにすぎないと。でも、それを言うなら、私にとってはクリスもおとぎ話の一部だ。試合に臨む前、その瞬間に、私は自分が、その場所に立つ人間としてふさわしくないと誰に思われていようと、ひとりの対戦相手として、196センチメートルの男性の、対等な対戦相手として、私はそこに存在することができる。それだけはクリスも否定できないだろう。それこそが、プロレスが与えてくれた希望そのものだ。どれほど違っても、そこには私が胸を張って生きる資格がある。世界は平等じゃない、とリアリストぶる人が私に告げたとしても、その言葉は私には届かない。私達が平等じゃないことなんて最初から知っている。でも、平等だと思って、それを信じて振る舞うから、一緒に生きていけるのだ。戦って、立ち向かう資格は、誰にだってあると、少なくとも信じていいんだと。

それは社会を運営するための建前にすぎないかもしれないけど、その建前すらないようにふるまうことを許容したら、誰もかれもが信じられなくて、誰かが自分を傷つけるのではないかと恐れて人は暮らすことになる。

 

リングの上では、私はわかったような言い方はしたくない、現実の厳しさの境界線を都合よくあっちへこっちへ移動したりしたくない。現実は厳しいというのが、たとえ真実だとしても。

私は信じている。私が読み、見て、感じている物語たちは決して虚構などではなく現実そのもので、それはときに私達をひどく傷つけるけれど、でも、その物語を信じるからこそ、生まれた場所も違えば考え方も違う私達は一緒にいることができる。

わかりあえない私とあなたが同じ場所にいる。傷つけあうためではなく、私をわかってもらうため。そのためには、私はあなたのこともきっとわからなければいけないのだろう。

 

たとえ私が間違っていたとしても、私が自分の境界線を動かさなかったことには意味がある。私が信じていることがおとぎ話だとしたら、それをおとぎ話だと笑えてしまう現実の方が間違っている。物語はいつだって現実を変える。それぞれが抱える物語が、世界に立ち向かう力になって根拠になって、不変だと思われていたものたちを変えていく。

私にはそれができる。たとえ弱くても、泣きじゃくりながらでも。

そういう物語を、おとぎ話を、私は紡ぐ。

I am Lulu pencil, a pro-wrestler.

I am a freelance writer. I am writing articles about video games and movies (here are my articles) and scripts for some video games. I love stories.

Stories accept everything, if I am not strong, stories tell me, it is okay and I can live as I am. That's what makes my attitude on how to live. Winner needs the loser. If someone proves their strength, he needs someone weak, so I'm scared of becoming strong.

Can’t losers survive in this tough world? Should they lie beneath the winner’s feet?

I deny it.

 

Now, I am a pro-wrestler. I have to be strong and I have to win, but I am not strong and have never won even once. It may be strange, but pro-wrestling accepts those opposite ways of living, so both way are my way to live and we can be as I am in the ring.

 

Chris Brookes said I believe in fairy tales. He said I am not a wrestler, the people around me make me believe I am a wrestler. It may be true. So many wrestlers and fans accept that I am a wrestler. It is the reason why I love pro-wrestling, and YOU are a part of my fairytale.

 

Someone may call me a loser, It might be true, if that’s so, I believe I can change the world as a loser.

I am not special, but if there is something only I can do, it's proving I can live as myself, because pro-wrestling accepted me being a wrestler, as I am.

Only pro-wrestling can prove it for me.

 

If you would like to know about me and ChocoPro, please read and watch those great creations.

 

youtu.be

 

youtu.be

 

derailmentsofthought.com

 

ramblingsaboutwrestling.com

 

(If I miss some articles, please let me know.)

 

I know how difficult it is to understand my thoughts and beliefs, because I am a writer. I always feel I am not enough to describe it.

However my English is not good, so many people interpret my attitude and describe it clearly. Their great articles and videos show what I wanna tell.

I am already blessed, all that is left is tomorrow.

プロレスが好きな3つめの理由

これが奇蹟だと、きっと一番驚いているのは私だ。

 

どうしてあなたはプロレスが好きなの?と聞かれて、真っ先に私が口にする二つの理由があった。

プロレスは、ミックスドマッチがあるから。

プロレスは、グローバルだから。

そして、デビューからの自分の道行きを振り返って、私が夢中になっていた2つの理由は、ほとんど初めから私と共にあった。

 

たくさんの男性レスラーと戦った。同時にデビューした他の5人の誰よりもきっと、私は男子とシングルマッチをやっている気がする。そのたびに私は自分の不十分さを感じるけれど、私のことを女性レスラーからだという理由で侮る人は誰もいなかった。私はただ、私だからという理由で負けていた。力がないのも、動きが鈍いのも、私だからだ。その「私だから」の中には、私が女性であるということも含まれているけど、それは私のすべてではない。悔しいことではあるけれど、でもそれは、私が憧れていたプロレスの姿そのものだった。私は私のままで、自分自身のすべてを使って、立ち向かっていくことができる。

デビュー3ヶ月目で、私はイギリスで試合をする機会に恵まれた。それはいくつかの、いくつもの偶然が重なって起きた出来事だったけれど、海外のプロレスファンが私を見つけてくれて、応援してくれたからこそ、その驚くべき出来事は現実になった。私はイギリスの地で私を応援してくれている人に出会い、彼らはペンシルアーミーを名乗ってくれて、それは私のレスラーとしてのアイデンティティの最も大きい部分を担っている。

そして今、私はチョコプロにいる。

チョコプロは日本の市ヶ谷から発信している団体だけど、その会場は世界だ。チャット欄には日本語よりも多くの英語が飛び交って、私達の試合を通じて、新しいコミュニケーションが、見ている人のいる場所に関係なく生まれ続けている。そこで私はいろんな人と試合をすることができている。国籍も性別も関係ない、とは言わない。それらもまた、その人の、レスラーとしての存在の一部だから。どの選手も、自分が生きてきた道のりを愛し、時には苦いものを感じながら、でも、一つの場所でつかの間の、でも決定的に人生に変えるような時を過ごしている。自分のままでいながら、他人とぶつかり、自分の形を変えていく。そこには、私が強固に抱いていた2つの理由のさらにその先のいろいろな感情や論理が溢れていて、私は途方に暮れさえする。

 

これほどまでに私は与えられていいのかといつも、私は驚きに震える。

「私はこれが好きだ」「なぜならこういう理由だからだ」。私が抱いてきた言葉はそのまま、私の在り方として今の私を支えている。それは別に、私が正しかったとかそういうわけではない。私は初めから間違っているかもしれないし、私はプロレスラーにふさわしくないのかもしれない。

でも、私が実現したい在り方を、プロレスという場が、チョコプロという環境が許容し、実現させてくれた。私と違うものをプロレスに見ている人もいて、きっとその在り方も現実になっている。でも、私は間違いなく、私の信じたものの中にいる。私の信じたものを現実にするために、許されている。そして、それ以上のものを見つけさせてくれている。

 

いま、だから私は、プロレスが好きな3つめの理由をきっと、見つけたのだろうと思う。

プロレスは、求めた以上に、見つけることができるから。

 

短い月日を振り返る。私はまだまだ未熟だ。未熟を名乗るのさえおこがましいほどに。だけど私は誰よりも、奇蹟を生きている。

私は、誰かに何かメッセージを伝えることなんてできない。元気を与えるとか笑顔になってもらうとか、そういう言い方をするには、私はちょっと利己的すぎる。

ただ、私が唯一、自分の意思で証明できて、ほかの誰かに示せることがあるとすれば。

私にも証明できる、ただそれだけは、言える。私にできるなら、私を見ている人達にもそれが可能なはずだ。愛するものを見つけて、その理由を探して、自分自身でその論理を証明する。さらにその先に、思いもよらない答えを見つける。それができるんだ。

 

楽しいね。楽しいんだよ、プロレスって。