ペンシルアーミーvsクリス・ブルックス軍団に向けて。あるいはインタビューとプロレスの関係について

インタビューは難しい。でも、それ以上に楽しい。けれどやっぱり、難しい。聞きたいことが全部聞けて、その内容を十全に伝えられる記事ができてしまった!なんてインタビューは、たぶんこれまでのライターの経験で、一個もない。

先日アップした、クリス・ブルックスのインタビューだって同じだ。私は私が聞き手としてまったく十分でないことを思い知った。

 

人の話を聞くのは楽しい。ライターという仕事の本質のひとつはコミュニケーションにあるのだと証明してくれる仕事が、インタビューだと思う。

同時に、何度やっても緊張してしまう仕事でもある。きちんと録音が取れているかといったごくごく基本的な部分でもそうだけど、限られた時間の中で相手を知り、言葉の中にある相手の想いを手探りで見つけ、さらに解像度の高い言葉を引き出すことは、まったく簡単なことじゃない。

インタビュー記事は話を聞いて書き起すだけのものだと思うひとも時々いるけれど、インタビューには常にインタビュアーとインタビュイーの関係性があり、そこで行われていることの大部分は書き手も含めた能動的な情報の出し合いであり、引き出し合いなのだ。

 

だから私は、人から話を聞くことがときどきとてもあぶない可能性をはらんでいるのだということを、人よりも多く知っているつもりだ。

相手を知ろうとすることは、ときに自分を知ってもらいたいと思うのと同じくらい傲慢だ。知られたくないことと知ってほしいことの区別は、話をする本人だってわかってない場合が多いのに、誰かが誰かを知りたいという欲望はときにその分別をたやすく踏みにじる。投げかけられた言葉に対して、この言葉には意味がある、この言葉には意味がない。そんな価値判断をして取捨選択をするという、ある意味暴力的な権利を、書き手は持っている。

 

そして、文字に書かれることや問いかけには、インタビュイーが持っていても、話を聞くインタビュアーが持っていない言葉は決して現れない。書き手の価値観が強固ならば、そこには新しい出会いはなく、ただ答え合わせのような記事になってしまうこともある。それは読者にもインタビュイーにも、不誠実な態度だ。だからインタビュアーは話をしてくれる相手のことを学ぶし、それにまつわる多くの事象を知るために、日ごろから情報収集に励み、自分の価値観を常にアップデートしていく必要がある。

 

私はこのインタビューでクリス・ブルックスに話を聞いたけど、最後までいい聞き手ではなかったと思う。私の前提はあまりにも強くて、そして私の英語はあまりにもつたなくて、私はインタビューした録音データを三回聞き直して、やっと彼の話していることの内容を掴めた。インタビュアーとしては噴飯物の無能さだ。私はそんな自分が許せない。私は間違いなく無礼な聞き手だった。相手をわかろうとする、その大前提にさえたどり着けていなかったのだ。ここに書かれていることは全く不完全で、クリス・ブルックスという人間を私の先入観で塗りつぶしてしまっているのではないかと、そんな恐れすらある。

 

いっぽうで、インタビューではなく、プロレスの試合で、私は時に言葉よりも饒舌に相手の話を聞くことがあった。見合った瞬間に交わされる視線に、振りぬいて体のどこかしらに赤い痕跡を残す手のひらに、宙を飛んで向かってくる両足の裏。試合のあいだは痛くて苦しくて必死だけど、その日の夜、痛みの残る体をベッドに横たえて目を閉じた瞬間に、私は対戦相手の何かを知ったのだと強烈に自覚する瞬間がある。その「何か」を捉えようと伸ばした指先から、すり抜けてしまう意味たちを惜しむ悔しさも含めて、私にとっては試合なのだ。かろうじてこぶしに残った言葉たちを、わたしはやっとのことで綴る。

人から話を聞く難しさと同質の困難が、そこにはある。同じくらい、いや、それ以上のあやうさも。相手を知ろうとしても、私は多くの場合返り討ちにされる。試合後は肉体の痛みと同じくらい、自分のふがいなさを思い知らされる無力感が私を襲う。でもライターとして生きてきた私には、プロレスラーとして対戦相手と情報をかわす行為は何物にも代えがたい喜びでもあるのだ。私は知りたい。つかみ取りたい。プロレスラーになっていなかったら存在すら知らなかったであろう、世界に隠された無数の秘密を。

 

もうクリスにゆっくり話を聞く機会はないかもしれない。ペンシルアーミーでの敗北を重ねて、彼はもはや私のことを知りたいなんてつゆほども思っていないだろう。そんな相手に話をする義理なんてない。

でも私には、試合がある。私はまだ、チャンスのすべてを失ったわけではない。私には試合がある。

それはほとんど賭けにすら似ていて、私は私の知りたいことを知ることができずに打ちのめされるかもしれない。それはもしかしたら、ふつうに人に話を聞く危なさすらはらんでいるかもしれない。傲慢な自分を自覚するのは、おそろしいことだ。自分の無力さを、私はまた改めて思い知らされることになるかもしれない。

 

だけど私は諦めない。諦めることはできない。諦めるには、私は欲がありすぎる。傷ついても痛めつけられても最後には私は欲しいものを手に入れる。

私はもう、私をわかってもらおうなんてしない、でも、私はあなたをわかろうとするよ。

でも、たったひとつ、わかってほしいことがあるとすれば。

この広い世界で、よりによって私に――知ることだけはどうやっても諦めきれない私に出会ったのが運のツキだったと、それだけわかればいい。

クリス・ブルックス