プロレスの受け身について考える

とあるプロレスについての記事を読んで、ひどく驚いたことがある。

記事の導入に、その記事を書いた人が「レスラーに対してクソリプを送った」エピソードを綴っていたのだ。

果たしてこれがほかの職種の人間に対しての記事だったら、この導入は編集部がよしとしただろうか、と考える。アイドル、野球選手、お笑い芸人、政治家。多くの場合は跳ねられるんじゃないだろうか。でも、プロレスラーの記事では、オーケーなのだ。少なくとも、この時はオーケーだと判断する編集者がいた。

別に私は、「プロレスラーの社会的地位が低いから、発言する当人でさえクソリプと自覚したようなことを送って、それを公言してもいいみたいに扱われるんだ」などと思っているわけではない。社会的地位の高低などはどうでもいいことだし、社会的地位が高くなったらそういう扱いをされないで済むという考え方は間違っている。しかし同時に、プロレスラーにならばある程度のラフな言及は許されるという雰囲気があるのだろうな、と推測もまた、できるのだ。

プロレスとは受けの美学である、とよく言われる。相手の技を受ける、受け身の技術こそがプロレスの本質である、というような意味の説明を、私自身もいろいろな媒体で見聞きした。本質に関する議論はどうしても堂々巡りになってしまうし、私がそれを語るに十分な知識や経験を持っているとは思わないので本論ではそこには踏み込まない。しかし代わりに私は、「受け身」という単語にまつわる定義の曖昧さが、プロレスラーという存在の扱われ方に強く影響を及ぼしているのだとも確信する。

ひとことで受け身と言っても、その言葉には様々な表現型がある。日本語で一般的に流通している、動作としての「受け身」という単語はおそらく柔道・柔術に由来すると推察されるが、その単語は今やあらゆる受動的な肉体的行為に対して適用される。たとえばアクションゲームで攻撃を受け、吹き飛ばされたキャラクターが空中で体勢を立て直して両足から着地するアクションも、「受け身」と名付けられることが多い。そのアクションが成功した場合は、受けるダメージが軽減されたり、相手の追撃を逃れられたりというメリットがある。その一例を取ってみても、「受け身」という言葉にまつわる共有されたイメージは理解できる。受け身は、取ることで相手の攻撃のダメージを軽減し、あるいは無傷で済むたぐいの体の動きである、と。

しかし、実際のところは、プロレスの話に限定するならば、受け身を取ったからといって、別に肉体的ダメージが大幅に軽減、あるいは消滅するわけではない。ぶっ飛ばされて背中から地面に叩きつけられると、息が止まって体の内側からもだえるような熱が体をあぶる。どれほど練習を重ねても、対戦相手の与えた勢いは練習にはないものだ。だから大きな一撃を貰えば、人体を一本通る骨が震えて、そこから体じゅうに痛みが響き渡っていく。

だから受け身はどちらかというと(あくまで私にとってはと留保をつけることになるが)、試合を継続するために、受けるダメージの場所や質をコントロールする技術なのではないかと思う。たとえば、正面から突き飛ばされたとき、人間の体は反射的に手を地面に伸ばして着地の姿勢を取ろうとする。脳と内臓の無事は、生命活動の維持においては手足のそれよりも優先されるからだ。しかし、対戦相手という巨大な質量に突き飛ばされたときに、器用ではあるが体のほかの部分よりも細く関節の多いところから接地しようとすると、かなりの確率で骨折、あるいは脱臼をすることになる。

受け身の持つ意味のうちの一部はこの、本能的な反応を人為的にコントロールする行為であり、そのための訓練の結果なのではないだろうか。

怪我の原因は常に多様だ。骨はどのような力に弱く、筋肉はどんな時に痛み、靱帯はどんなタイミングで悲鳴を上げるのか。プロレスラーはその多様性に、おそらくある程度までは詳しい。けれど、そのタイミングや原因が分かっていても、対戦相手の力が加われば、途端にそこは不確定要素の海になる。

空中に放り投げられれば姿勢のコントロールには限界があるし、相手の力が常に自分の想定におさまってくれるはずもない。吹き飛ばされてそれからどれくらいの時間でマットに叩きつけられるかもわからなければ、空中から降ってくる相手の体重がどれくらい自分を押し潰すのかだって、その瞬間にならなければ把握できない。

でも、何があっても、気持ちが戦いに向かう限りは、立ち上がらなければいけない。そのためには、たとえ大きな痛みやダメージがあっても、戦うための手段は残しておかねばならない。背中を叩きつけられてこみ上げてくる酸っぱい何かはもしかしたら呑み込めるかもしれないけど、手首の骨が折れたら強い力で相手を撲れない。撲れなかったら、勝てなくなる。立ち上がれなかったら、負けてしまう。

だからこそ。

「プロレスラーは受け身を練習してるから、何をされても言われても受け流せるんだよね」という言い方は、プロレスラーがリングの上でおこなっていることの意味を、少なからず毀損している。侮っている、と言ってもいい。受け身を取っても痛い。たとえ、戦うための訓練をしていたとしても。でも、痛いけれども戦う。ダメージはあるけど、立ち上がる。傷ついた体を抱えたまま。

私が言っていることはレスラーとして甘っちょろいのかもしれない。でも、私は自分が誰かにとって何を言ってもいい相手として認識されるのは間違っていると思うし、投げかけられるものすべてを「受ける」のが正しいことだとは絶対に思わない。たとえその瞬間に頭や骨や関節を守って戦い続けることができたとしても、ダメージは確実に蓄積されていく。

試合なら、それはいい。私はそれをわかって臨んでいる。関節を曲げ損ねたときに痛めた靱帯が小さく悲鳴を上げても、それは私が選んだ戦いの一部だから。でも、それ以外の、思わぬ場所から与えられる痛みを自分の戦いの中として認めるか、受け入れるかどうかは、痛みを与える側が決めることじゃない。理不尽な痛みを受け入れることを認めることは、プロレスを見ている人たちにも、間違ったメッセージを与えることになる。

痛めつけられても立ち上がるための技術。受け身に含まれる意味の一つが、それだ。どんな苦境にあっても戦い続けるための技術と気持ちを知る人が戦うから、私はプロレスに夢中になっていた。でも、だからと言って、私はそのようにして立ち上がれと不特定多数の人に言いたくはない。痛みは必ず残るものだから。

私が伝えたい言葉は、だから、受け身を取れば大丈夫、なんてことじゃない。私が伝えたい言葉は、生きている限りはどうしても受けてしまう傷と痛みを消し去る技術なんて決してないということ。そして、私はそういうふうに決して消えない誰かの痛みを、あなたの痛みを、たぶん知っているということ。それでも戦い続けることはできると示すこと。

試合を見ている客席で、痛みを抱えていたかつての私は、だからこそ、一人ではないと思えたのだから。